新 判例分析講座

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判例とは?
判例とは何でしょうか?
大雑把に言えば、具体的事案に対して、裁判所が下した法的判断のことです。
実務で大きな影響力を有する判例と言えば、もちろん、最高裁判所の法的判断のことで、実務で「判例」といえば、具体的事案に対して最高裁判所が下した法的判断のことをいいます。
具体的事案に対する下級審裁判所が下した法的判断は、「裁判例」といいます。
どの部分が判例なのか?
「判例」とは、具体的事案に対して最高裁判所が下した法的判断のことですが、どの部分が「判例」と呼ばれるのでしょうか?
実は、最高裁判所が具体的事案に下した法的判断のどの部分が「判例」なのかについては争いがあります。
「結論命題だけを判例とみる立場と、裁判理由の中に書かれた一般的法命題をも判例と考える立場との対立」(中野次雄編『判例とその読み方 改訂版』(有斐閣、2002年)64頁~65頁)
があります。
「裁判理由の中に書かれた一般的法命題をも判例と考える立場」が多いかと思います。ここでもその立場で検討していきます。
判例の射程
「判例」が何かを押さえたうえで、次に気を付けるべきポイントは、「判例」が具体的事案に対する最高裁判所の法的判断であるという点です。
最高裁判所の法的判断が、この具体的事案に対してなされているという点を押さえることが大切です。
具体的事案をどこまで具体的に捕まえるのか、具体的事案の捕まえ方次第で”判例の射程”が変わってきます。
判例分析という言葉を聞くと思います。判例分析で一番重要なのは、”判例の射程”の理解です。
実務家は、日々”判例の射程”を意識して仕事をしています。
判例の射程とは?
判例の射程とは、一般論としては、
裁判理由の中に書かれた一般的法命題
が妥当する範囲のことをいいます。
一例を挙げてみます。
民法で担保物権の物上代位の理解を巡って、
・特定性維持説
・優先権保全説
・第三債務者保護説
で対立があります。
判例は、
先取特権では特定性維持説と優先権保全説を合わせた理解をしています(昭和60年7月19日)が、抵当権では第三債務者保護説に立っています(平成10年1月30日)。
これは、先取特権の場合の物上代位の理解が抵当権の物上代位の理解には及ばないこと、つまり、先取特権の物上代位についての最高裁の判断の射程が抵当権の物上代位の構造理解には及ばないことを意味しています。
単に、物上代位の構造は?
という頭ではこの2つの判例の違いを理解することはできません。
この判例の考え方は、学説の考え方とは発想が違います。
裁判所は、個別具体的な事案の解決が目的ですから、一般的な理論の定立にはあまり関心を持ちません。
しかし、学説はあらゆる事案を想定した一般的な理論の定立に関心を持つ傾向にあります。
この考え方の違いはとても重要で、ここを押さえておかないと「判例」を理解することが難しくなります。
「判例」が個別具体的事案への判断であることからすると、個別の事件ごとに解決が異なってきそうな気もしますが、そうではありません。
全く同じ事案はありませんが、公平の観点から同じように解決すべき事案というものがあります。
全く同じ事案ではないが、同じように解決すべき事案がある、ということは、具体的事案の類型化が行われているというわけです。
この類型化が「判例の射程」の理解で極めて重要となります。
類型化をする際、法的観点から、個別具体的事案のどの要素をどれだけ重視するか、という判断が必要となるのです。つまり、法的観点から具体的事案の選別がなされるわけです。
どういう基準でその選別がなされたのかを追体験することが判例勉強の目的です。
学説との違い(判例の特徴)
具体的事案への判断ということを誤解すると事案ごとの判断が恣意的になされている、つまり、判例には一貫性がないと誤解してしまいます。
これは、学説と判例の発想の違いを押さえていないことから生じる誤解です。
学者は様々な事案をうまく説明することができる一般的な理由付け(抽象的な規範・理論)を考えがちです。
対して、裁判官(所)は目前になる事案の妥当な結論をまず考えてその後にその結論を導くのに必要な限度での理由付け(法的構成)に重点を置いて考えています。
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その発想の違いが生じるのは何故でしょうか?
学者が一般的な理由付けを重視するのは、国家権力の恣意的な発動を理論によって抑制しようという価値判断があるからです。
理論を重視する学者による利益考量論批判への反論の文脈において、星野英一先生は、次のようにおっしゃっていました。
資本主義国家権力に対する批判の立場を常にとらなければ正しい解釈でない、ということを言っているだけのことではないかと思われるのです(星野英一『民法の焦点part1・総論』(有斐閣リブレ9、1987年)108頁)。
これに対して、裁判官(所)は具体的な争訟を妥当に解決するために法を適用する国家作用たる「司法」(憲法第6章)を担う国家機関であるため、訴えられた具体的な争訟(具体的な事案)を解決する権限しか有していません。
具体的事案に対する判断であるなら事案ごとにバラバラの解決、恣意的な解決になりそうです。
これを回避する仕組みが「判例の射程」なのです。
学説の思考に慣れた方は、判例に対して次のような疑問を有しないでしょうか?
妥当な結論から考えるというのは「法の支配」ではなく、「人の支配」ということになっていないのか?
この疑問を解決する前に、次の記述を読んでみてください。
「一体お前などは、法律をむやみに理窟一点張りに考え抜こうとしているけれども、それがそもそも非常に間違っている。おれなどは事件をみると、全く理窟などを考えずに、これは懲役何年とか罰金何円とかいうようなぐあいに、頭の中に自然に裁判が生まれてくる。それにあとから法条や判例学説などを照らし合わせて理窟をつける。するとおれの頭の中に自然に生まれた裁判がちゃんと理窟に合っていることを発見するので、お前らは裁判が三段論法的推理で理窟から生まれるように思っているかもしれないが、そんなことはかけだしの裁判官(所)ならとにかく、われわれは全くそんなことをしない。大学では三段論法風に法律を教えているけれども、あれはああしないと学生にわからないからで、いわば教育の方便、実際の裁判はむしろ、三段論法の逆をゆくのだ…」(末弘厳太郎『嘘の効用上』冨山房、1996年、286頁)
上記は、民法学者の末弘厳太郎先生の父が厳太郎先生に話された内容だということです。
これを読むと、裁判は、まさに「人の支配」のように聞こえてきます。
ですが、価値判断が先にあり、理窟が後、というのが裁判所の判断の仕方だ、というのは、熟練した裁判官(所)のほとんどが認めるところです。
この裁判所の判断の仕方が「人の支配」かどうかですが、そもそも「人の支配」というのは、価値判断のみで理窟で説明することができない判断を下すことをいいます。中世ヨーロッパの裁判などを想像してもらえば分かりやすいと思います。あの当時の裁判は、裁判官(所)の直感だけで判決をしていたといっても過言ではありません。理窟では説明していないというのが「人の支配」の典型です。
学説の発想になれている方は、それでも判例は「人の支配」ではないか?と思うかもしれません。
ですが、実は学説であっても似たような発想なのです。あたかも理論から結論が出されているように見せているだけなのです。判断過程は裁判官(所)と似ています。妥当な結論というものがあって、それをうまく説明しながらなおかつ国家権力の恣意的発動を防ぐ「理論」を考えているのが学者なのです。国家権力の恣意的発動を「理論」が防ぐためには、その「理論」の妥当範囲は可能な限り広い方がいいのです。それ故に、学説は一般的な理由付けを重視するのです。
ということは、学者も「学説の射程」を当然に考えています。裁判官(所)が「判例の射程」を考えているのと同じです。
ただ、学者は一般的な理由付けの観点から「学説の射程」を検討しているのに対して、裁判官(所)は事案が同じか否かという観点から「判例の射程」を検討しています(つまり先の「判例」(先例)と矛盾しない解決を目指して「判例の射程」を検討しています)。
その違いを理解することが大切です。
学者は抽象思考
裁判官(所)は具体思考
とはいえ、判例にも民法177条の「第三者」のような抽象的な規範があります。
判例も具体的事案を解決するために抽象的な規範を定立することがありますからこの点では学説と同じです。
ですが、その抽象的な規範は当該具体的事案及びその事案と同じと判断された事案、すなわち「重要な事実」(中野次雄編『判例とその読み方』42頁)を同じくする事案にしか及ばないというようにあくまでも事案ごとに判断をするという点で判例は抽象的な規範をすべての事案に適用していきがちな学説とは異なります。
恣意的判断防止の歯止めとしての判例の射程
事案ごとの判断では、恣意的な判断を防止する歯止めにならないような気もします。
しかし、「事案ごと」にいう「事案」とは、「重要な事実」を同じくする事案をいいます。「重要な事実」を同じくする事案に同じ判断を下すのは憲法14条の平等原則から当然に導かれます。
ですから、事案ごとの判断といっても、行き当たりばったりの判断ではないのです。理論というよりは、「重要な事実」を同じくする事案であるか否か?まさに「判例の射程」のことですが、そこが判例の生命線となります。「判例の射程」が恣意的判断防止の歯止めとなるのは、「重要な事実」を同じくする事案であるか否かを十分に検討する場合ということになります。
判例の射程と事案の結論の関係
「判例の射程」と事案の結論はどういう順番でなされるのでしょうか?
結論としては、混然一体というのが正確かと思います。
事案の結論を決める際、これまでの先例を無視することは事案解決の不平等をもたらし、まさに事案ごとの恣意的な判断となりますので、結論を考える際には先例とのつながり、つまり「判例の射程」も考慮することになります。
ある結論が「判例の射程」に照らしても説明がつくならばその結論を判決として下します。またある結論が「判例の射程」に照らして説明することができないならば結論を変えるかもしれませんし、それでもある結論を維持したい場合は、「判例の射程」はこの事案には及ばない(及ぶ)として「判例の射程」を操作することになります。
判例の射程は操作することができるのか?
「判例の射程」を操作することはできるのでしょうか?
結論としては、可能です。
そもそも「判例の射程」というのは、判決をする裁判官(所)が判決文に書くわけではありません。あくまでもその判決後の裁判官(所)が先例の「判例の射程」を決めます。「判例の射程」を巡って争いが生じるのはそのためです。客観的に「判例の射程」はこうだ、というものはありません。価値判断をどうしても伴うのが法律学の宿命です。「判例の射程」を検討するにも価値判断を避けられません。
そうはいっても、後続の裁判官(所)が平等の観点から同じ事件を同じに解決することで、そういった解決が積み重なっていくと裁判所の一般的・抽象的な法的判断基準が見えてくることになります。
この一般的・抽象的な法的判断基準のことを「判例理論」といいます。学説がいうところの「理論」とはだいぶ違いますので注意が必要です。「判例理論」は、あくまでも個別具体的な事案に対する判断の積み重ねとして明らかになってくる裁判所の一般的・抽象的な法的判断基準です。「判例理論」の背後には、問題となる事案における利益状況においてどちらの利益をどう保護するのが妥当か?という最高裁判所の価値判断の積み重ねが存在します。
その価値判断は、「重要な事実」が同じなのか異なるのかという判断にもなされます。「判例の射程」を操作するというのは、つまり、「重要な事実」が同じなのか?異なっているのか?についての価値判断を巡る争いといえるのです。
もっとも「重要な事実」の異同も価値判断の影響を受けるとすると、もはや恣意的な判断を防止する歯止めがないようにも思えます。学説側からするとそういう批判が当然なされるでしょう。
ですが、それは法律学が避けられない問題です。法律学というのは、最終的にはすべて価値判断に帰着します。自然科学と違って法律学は価値を扱う学問ですから当然、価値判断に正面から取り組む必要があるのです。問題は、その価値判断の正当性・妥当性だといえます。
連鎖小説の比喩
「判例」の特徴は、先例との関係を常に具体的事案との関係で具体的に意識することにあります。ですので、これまでの判例の流れをしっかりと押さえることが必要となります。
当該判例を孤立して考察するだけでは不十分である。まったく新しい判例は別として—その場合でも関連判例はあるが—多くの事件については判例の流れがあり、その流れと関連させて、はじめて当該判例の当否が判断されうる。(広中俊雄・五十嵐清[編]『法律論文の考え方・書き方』(有斐閣、1983年)50頁)
また、ロナルド・ドゥウォーキンの「連鎖小説」の比喩も分かりやすいです。
連鎖を構成する各々の小説家は、新たな一章を書き加えるために、彼にすでに与えられているそれ以前の諸章を解釈するものであり、彼が新たに書き上げた章は、その後次の小説家が受け取るものに付け加えられる…(ロナルド・ドゥウォーキン『法の帝国』(小林公、未来社、1995年)358頁)
つまり、ある小説家が自分が担当する章を書く際に彼に与えられているこれまでに書かれた諸章を解釈します。続き物の小説ですから前後に矛盾があってはいけません。後の小説家は、これまでの章から解釈される筋に則って新しい章を書く必要があります。そういう意味で後の小説家は常に先行する諸章と矛盾しない範囲で担当の章を書くのです。もし、後の小説家が書こうとしている内容が先行する諸章と矛盾するのであれば、矛盾しないように内容を変更する必要が出てきます。
そして、
彼はテクストへともう一度立ち返り、テクストによって適格とされうる話の筋道を考え直すことになる。(ドゥウォーキン『法の帝国』362頁)
のです。
まさに、裁判官(所)が「判例の射程」を検討する際の思考方法です。裁判官(所)は、続き物の小説を書く小説家といえるのです。常に先行する判例を意識し、先例と矛盾しないように新しい判例を日々紡いでいるといえます。
---新判例分析講座総論・終---